鹿児島実業のイケメンエースで甲子園のアイドルと呼ばれた定岡正二さん。
その後は、長嶋監督率いる読売ジャイアンツからドラフト1位指名され、江川、西本と共に先発3本柱として活躍されました。
しかし、近鉄とのトレードを拒否し、わずか28歳の若さで現役を引退されました。
今回は、そんな定岡正二さんのwiki経歴や甲子園、プロ野球での活躍や引退、学歴ついてまとめてみました。
定岡正二のwiki経歴
定岡正二のwiki風プロフィール
名前 | 定岡 正二(さだおか・しょうじ) |
愛称 | サダ、サダさん、サダ坊 |
生年月日 | 1956年(昭和31年)11月29日 |
年齢 | 67歳(2024年11月10日現在) |
星座 | いて座 |
干支 | 申(さる)年 |
出身地 | 鹿児島県鹿児島市 |
血液型 | O型 |
身長 | 184㎝ |
体重 | 74㎏ |
ポジション | 投手 |
投打 | 右投右打 |
最終学歴 | 鹿児島実業高等学校 |
ドラフト | 1974年 読売ドラフト1位 |
背番号 | 20 |
所属球団 | 読売ジャイアンツ |
甲子園のイケメンアイドル
鹿児島実業高校で、2年生夏と3年生夏に、全国高等学校野球選手権大会に出場。
3年生の夏は、エースとして出場し、初戦、3回戦を1対0の完封勝利。
準々決勝では原辰徳のいる強豪東海大相模を延長15回、213球18奪三振で破り、鹿児島県勢初のベスト4に導きました。
この試合の視聴率は34パーセントで、試合途中で放送を終了したNHKに抗議が殺到し、翌年からは総合と教育テレビでリレー中継するようになりました。。
準決勝の防府商高戦では、3回に右の手首を負傷。
交代を余儀なくされた上、チームはサヨナラ負けし、その悲劇性と甘いマスク、高い実力が相まって女子中高生から絶大な人気を得て、アイドル的な人気者になりました。
その絶大な人気は、地元のバス会社が当時定岡の暮らしていた実家を観光バスで回るルートを設けたほどでした。
巨人ドラフト1位
初登板:1977年5月18日 対大洋10回戦(石川県立野球場)8回表に6番手で救援登板・完了、2回無失点。
初先発:1977年5月26日、対ヤクルト11回戦(神宮)1回1/3を3失点
初奪三振:1977年5月26日、対ヤクルト11回戦(神宮)1回裏に福富邦夫から
初勝利・初先発勝利:1980年6月5日、対中日10回戦(ナゴヤ)6回2失点
初完投勝利:1980年8月11日、対横浜大洋20回戦(横浜)9回3失点
初完投勝利:1980年8月11日、対横浜大洋20回戦(横浜)、9回3失点
初完封勝利:1980年10月15日、対広島24回戦(後楽園)
初セーブ:1984年9月17日、対広島22回戦(広島)、7回裏に2番手で救援登板・完了、3回無失点
オールスターゲーム出場:1982年 1回
近鉄へのトレードを拒否し28歳で現役引退
『野球を辞めるのは巨人のユニフォームを脱いだ時』と決めていたことを実行させてもらっただけ」と引退の際に語りましたが、
後に、一軍公式戦で初勝利から6シーズンで51勝を挙げていた自分を他球団へ移籍させることへの疑問が高じて引退を決めたことを明かしています。
定岡正二の学歴
鹿児島実業高等学校(偏差値42~71)
定岡正二さんの出身高校は、私立鹿児島実業高等学校です。
野球部は1996年春の第68回甲子園大会、サッカー部は全国高校サッカーでの優勝経験があり、陸上部は全国高校駅伝への出場経験があります。
出身の有名人としては、元読売ジャイアンツの定岡正二さん、読売ジャイアンツ投手コーチの杉内俊哉さん、
サッカー元日本代表の前園真聖さんや城彰二さん、遠藤保仁さんなど、野球選手やサッカー選手を中心には輩出しています。
鹿児島市立吉野中学校
定岡正二さんの出身中学校は、鹿児島市立吉野中学校です。
鹿児島市立吉野小学校→大浦町立大浦小学校(現・南さつま市立大浦小学校)
定岡正二さんの出身小学校は、鹿児島市立吉野小学校→大浦町立大浦小学校です。
定岡正二のwiki経歴学歴!甲子園のイケメンアイドルはトレード拒否で現役引退!まとめ
いかがでしたか?
高校野球では甲子園のイケメンアイドルとして絶大な人気を誇った定岡正二さん。
ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団し、先発3本柱として活躍するも、トレードを拒否して28歳の若さで引退されてしまいました。
その後は、芸能界でも活躍された定岡正二さんですが、現在は、野球に関わる仕事をメインにされてるようで、学生野球の監督を目指されてるとか。
甲子園に監督として帰ってくる日を楽しみにしておきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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